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能登畠山氏の築いた天宮、上杉謙信も絶賛した要害へ山城の醍醐味を求めて登る
七尾城【石川県七尾市】

CGで再現された七尾城。一番高い位置にある建物が本丸で、下っていくと桜馬場、調度丸、寺屋敷へ続きます。左奥に見えるのは畠山氏の重臣、長氏の屋敷です

文=山本明子
写真=自然人編集部、国分秀二(*) ◎七尾城山を愛する会

※本文は2011年春発行の「自然人」第28号に掲載された内容をベースに、2020年6月現在の最新情報を反映するなど、一部改訂しています

戦国の巨大城郭・七尾城

七尾城は、170年にわたり能登を治めた戦国大名・畠山氏の居城として、また能登の政治、経済、文化の拠点として機能した山城です。その規模は壮大で、標高約300mの尾根上に配した本丸を中心に、多数の曲輪(くるわ)が築かれていました。

築城の正確な年代は明らかでありませんが、約600年前とされる築城当初は砦程度の規模であったものが、戦国期に入ってから拡張や増強が加えられ、次第に巨大城郭が形成されていったとみられています。複雑急峻な地形を巧みに生かして設計された城郭は難攻不落のほまれ高く、天宮ともうたわれる名城でした。

ガイドさんと共に、いざ登城

今日、七尾城跡は、戦国期と織豊期(安土桃山時代)のもっともすぐれた山城構造を備える史跡として、高い評価を受けています。日本百名城、日本五大山城のひとつにも数えられ、空前の歴史ブームの中、年間1万人あまりの観光客が訪れます。中でも、主郭部に残る大規模な石垣は多くの人を魅了するといいます。

「ならばぜひこの目で見たい」と、七尾城跡を訪ねることにしました。

七尾城跡一帯は城山(じょうやま)と呼ばれています。本丸跡へは近くにある北駐車場まで車で登ることも可能ですが、ふもとにある七尾城史資料館前から大手道(旧道)を歩き、約40分かけて本丸跡を目指します。自然観察にも適したこの道は、春の花の時期には特におすすめのコースでもあります。

七尾市観光ボランティアガイド「はろうななお」の初見清さん、松島俊雄さん、「七尾城山を愛する会」の国分秀二さんにご同行いただき、いざ本丸へ。


左から初見さん、国分さん、松島さん。雨の中ありがとうございました

自然観察も楽しい「歴史の道」

民家脇の細い路地を抜け、林の中の遊歩道を進みます。歯痛を治してくれるという「立石(たていし)の地蔵さん」を左手に見ながら、さらに歩くと赤坂口につき当たります。ここは畠山氏の通用口とも城内臣下の出入り口とも伝えられる場所で、現在は、七尾城跡の国史跡指定(昭和9年)への礎を築いた小田吉之丈翁の顕彰碑が立ちます。小田翁は、七尾城の研究・保存に尽力し、昭和3年に著書『能登七尾城主畠山記』においてその歴史的価値を世に知らしめた人物です。廃城後、300年以上ひっそりと埋もれていた七尾城の遺構に光を当てた功績は計り知れません。

顕彰碑から先は「歴史の道」として整備されていて、春には道沿いにイワウチワ、ショウジョウバカマ、キクザキイチリンソウ、イカリソウ、ミツバツツジなどが咲き、登山者の目を楽しませてくれます。

イカリソウ(*)

イワウチワ(*)

キクザキイチリンソウ(*)

ショウジョウバカマ(*)

ミツバツツジ(*)

ヒトリシズカ(*)

道すがら、城内・城下に時刻を知らせる鐘があった「時鐘跡」、急カーブの連続で敵の侵入を拒む「七曲り」、警護の兵が交代で詰めていた「番所跡」などの遺構が続き、登るにつれ山城の気配が濃くなってきます。

ことに「七曲り」あたりからは、尾根はいっそう険しくなり、隣の尾根との間を深い谷が隔てます。自然の地形を生かした縄張(城の設計)の巧みさを実感できる場所です。矢として使われたというヤダケも、このあたりではよく目につきます。

「時鐘跡」から「本丸」までは800m

山城に多いヤダケ

上杉謙信と七尾城の戦い

「七曲り」を過ぎ、登城の際に身なりを整えた場所といわれる「沓掛場(くつかけば)」を通って、安寧寺(あんねいじ)前の眺望のよいベンチで一休み。眼下に広がる七尾の町並みを眺めながら、七尾城の戦いについて簡単におさらいします。

富山湾流通圏を手中に収めたい上杉謙信は天正4(1576)年11月、能登へと侵攻し七尾城に迫りました。籠城し、援軍を待つ作戦をとった畠山軍との間で激しい攻防が続きましたが、援軍は到着せず、支城は次々と落城して七尾城は孤立。城内でも疫病が流行り、情勢に行き詰まりを感じた重臣・遊佐氏らの内応もあって、天正5(1577)年9月、ついに落城しました。その間、城内には3000人の家臣がのべ二百数十日(※)にわたって籠城。城内では水や物資が不足し、処理しきれない糞便であふれかえったといいます。

※…天正4(1576)年11月に始まった七尾城の戦いは、翌年3月、関東の政情不安により謙信が一時越後へ戻り中断。同年7月に再び攻め入った謙信により、9月に終止符が打たれました。

籠城の悲哀を物語る白米伝説

籠城についてはこんな言い伝えも残ります。——長期の水攻めにも屈しない七尾城を前に一旦退却した謙信は、山すその橋の上で、城山から勢いよく流れ落ちる滝に無数のカラスが群がっているのを目にする。この滝が白米であることを見破った謙信は、すぐに取って返して再び攻めのぼった。籠城中の水不足を悟られまいとする畠山軍の苦心の策は仇となり、七尾城は落城。以来、この橋を「もどり橋」と呼ぶようになった…というものです。

この白米の滝の場所については定かではありませんが、「もどり橋」があったとされる現在の七尾市国分町が、このベンチから眺められることから、米を流したのはこの場所か、あるいは、この先の「二の丸」と「三の丸」の間の堀切ではないかと推測されます。


安寧寺前のベンチから、「もどり橋」があったとされる場所を示しています

山城の醍醐味を味わいつつ主郭部に迫る

休憩の後は「安寧寺跡」へ向かいます。通常、七尾城中心部を効率よく回る際は、「沓掛場」から「樋(とよ)の水」「調度(ちょうど)丸」を経て「本丸」へと登り、「本丸」奧の虎口(こぐち)から「遊佐屋敷」「桜馬場(さくらのばば)」「温井(ぬくい)屋敷」「二の丸」「三の丸」「安寧寺跡」と下ってくるルートが使われます。しかし今回は雨で足元が悪く、「本丸から安寧寺までの急な山道を下るのは危険」とのガイドさんの判断により、通常ルートを逆にたどって本丸を目指すことにしました。

「安寧寺跡」には畠山氏を偲ぶ慰霊塔と、昭和17(1942)年から始まった「七尾城まつり」功労者の慰霊碑が立っています。この場所を過ぎたあたりから、山道は傾斜を増してきます。

つづく「三の丸」の規模は曲輪の中では最大で、広い敷地に今も残る石塁が屋敷の大きさを示しています。

「二の丸」との間を隔てる深い堀切は、人の手で掘られたもので、前述の白米の滝があったと目される場所です。「二の丸」とは橋でつながっていて、有事の際は橋を落として敵の侵入を阻止したそうです。

「三の丸」から一旦堀切へ下り、今度は急な階段を登ります。急峻な尾根に作られた曲輪へと一歩一歩登ってゆく感覚は、まさに山城を歩く醍醐味でしょう。

登りきった先は、主郭部の北端に位置する「二の丸」です。保存状態のよい二段の石垣が目につきますが、よく見ると谷側にも数段にわたって石垣が組まれており、「二の丸」は城の要所であったことをうかがわせます。数年前には、ここで出陣の際に割ったかもしれないカワラケも発見されました。そう聞くとにわかにロマンをかり立てられ、「本丸」へと気持ちがはやります。

「二の丸」の石垣。この左側の谷にも石垣が残っています

「三の丸」と「二の丸」の間の堀切

城内の水源であった「樋の水」。2007年の能登半島地震以来、水量が減ったそうです

主郭部へむかって一歩一歩急な階段を登ります。登った先が「二の丸」です

往時の面影を留める重厚な石垣

「二の丸」を後に「温井屋敷」を抜け、七尾城の搦手門(裏門)があったといわれる「九尺石」を右手に見ながら、「桜馬場(さくらのばば)」へと歩を進めます。

「桜馬場」周辺は、大規模な野面積みの石垣が残る一帯です。特に、「桜馬場」から「二の丸」下に残る石垣は古く、築城当時のものも見られます。また、「桜馬場」北側には、七尾城跡でも最大規模を誇る五段の石垣が、往時の面影を色濃く留めています。もっとも原始的な工法である野面積みの石垣は、武骨かつ精巧で、見る者を強く惹きつけます。

「桜馬場」を出て「遊佐屋敷」を通り、「本丸」へ続く階段を上り始めると、今度は階段を挟むようにして石垣が現れます。右手には階段に沿って続く石垣、左手には三段の重厚な石垣が築かれています。通常、山城では土塁が用いられることが多いものです。山上まで石材を運び上げ、石垣を組み上げるには、大変な労力を必要とするからです。にもかかわらず、標高約300mの本丸付近に、これほどの規模の石垣が築かれていたことに目を見はります。


「桜馬場」北側の石垣(七尾市観光交流課:提供)

「九尺石」。2008年の豪雨による被害のため、近づくことはできませんでした

「本丸」跡への階段

謙信も感嘆した天宮からの絶景

階段を上りきると、これまでの尾根道や、杉木立に囲まれた「桜馬場」から一転、遮るもののない平坦な広場に出ます。ここが「本丸」跡です。七尾市街や七尾湾はもとより、晴れた日には輪島の高州山まで見渡せるというこの場所には、まさに天宮の名がふさわしいでしょう。

七尾城落城後に登城した謙信は、「聞きしに勝る名地で、加越能三カ国の要の地形といい、要害は山海相応し、海や島々の風情も絵にもかけない景勝である」と感嘆したそうです。

その絶景を眼下に、この城の来し方に思いを馳せてみましょう。難攻不落の城をめぐる激しい攻防も今は昔。七尾城本丸跡には、畠山氏の後裔・畠山一清氏の篤志によって建てられた「七尾城址」の石碑が、静かに佇んでいます。

城山総合運動公園より望む城山(*)

晴れた日の「本丸」からは絶景が広がります(*)

七尾城を詳しく知るため、七尾市では七尾城の全体像をCGで再現した映像「よみがえる戦国の名城(七尾城)」を制作し、インターネット上で公開しています。詳しくは「七尾城CG」で検索を。また、七尾城史資料館の大型モニターでも上映しています。
(2020年6月追記)

アプローチ

七尾城史資料館まで能越自動車道七尾城山ICより車で約5分。のと里山海道上棚矢駄ICより車で約30分。JR七尾駅より車で約10分、七尾市内循環バス「まりん号」順回りで13分、逆回りで14分。資料館より本丸跡駐車場までは車で約5分。本丸跡駐車場より本丸跡まで徒歩5分。資料館より徒歩で大手道を登る場合は本丸跡まで約40分。

お問い合わせ
七尾市観光ボランティアガイドはろうななお
TEL:0767-53-8815

[七尾城史資料館]
七尾城跡への登り口にある資料館。城主畠山氏の愛刀や鎧などを展示。 入館料200円(12月11日〜3月10日休館) TEL:0767-53-4215

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