【歴史編】北陸の豊かな食の歴史
京の都と結ばれた越前・若狭
鯖街道を行く人の像
福井県は日本本州のもっともくびれた部分に位置し、木の芽山地を境にして北を嶺北、南を嶺南と呼ぶ。嶺北はかつて越前国と呼ばれ、曹洞宗本山永平寺を擁するとともに、浄土真宗を厚く信仰する地域である。嶺南は若狭国と越前領であった敦賀からなり、かつてより都の人々にとっては海の幸をもたらす国として認識されていた。若狭国は律令時代には御食国(天皇や神に捧げる食を納める国への呼称)のひとつに位置づけられていたといわれる。また、古代において海外からの玄関口として機能した敦賀の松原客館や、小浜の湊への南蛮船渡来など、日本海を挟んだ大陸との交流の跡も残る。
敦賀や小浜で陸揚げされた昆布などの海産物や物資は、陸路や琵琶湖を経由して京へと運ばれる。そうして運ばれた昆布を都では「若狭昆布」と呼んでいた。現在でも京都の市場では鯖やぐじ(甘鯛)などの海産物が「若狭もん」の名で並び、人々の食卓を支えている。小浜と京をつなぐ道は複数あったが、近年「鯖街道」と呼ばれ脚光を浴びている。「京は遠ても十八里」という言葉が示す通り、若狭は京の都と深いつながりを持ってその歴史を歩んできたといえるだろう。
大陸文化の玄関口能登と加賀百万石の城下町金沢
日本海に大きく突き出す形の能登半島は、古代には海を渡って訪れる異文化を迎える玄関口であった。7世紀末に中国北東部から朝鮮半島北部にかけて興った渤海国や高句麗などからの使節は、日本海沿岸各地に来航し、陸路で都を目指した。中でも能登羽咋郡福浦津は、渤海使の造船・出港地として指定されるなど、古代の交易地として活況を呈した。また中世においては北国と敦賀、小浜を結ぶ中継地として近世の北前船の時代に至るまで日本海側の各地との交流が行われた。能登半島は魚介や海藻の宝庫でもあり、いわしやいかの内臓などでつくる「いしり」は、独特な旨みと香りがあり、東南アジアの魚醤にも通じるものがあるという。
一方の加賀の歴史を見れば、何といっても「加賀百万石」の城下町金沢として遂げた発展が挙げられるだろう。周囲を海山川などさまざまな自然に囲まれ、そこで得られる食材は「金沢の台所」と呼ばれる近江町市場や商店に集められる。一年を通じて新鮮で多様な旬の食材を手に入れることができ、それにふさわしい調理を施して、輪島塗や九谷焼といった豪華な器に盛りつけた「加賀料理」は、中央と離れた地域にありながら非常に洗練された形で花開いた。
山間部に富山湾の恵みをもたらした鰤街道
富山は古代、万葉の歌人大伴家持が越中国守として赴任していた地としても知られている。
富山湾は特有の「あいがめ」と呼ばれる深い海底谷を持つため、ホタルイカやシロエビをはじめさまざまな魚介類に恵まれている。また東北に向かって口を開いた湾の形は日本海沿岸に沿って南下してくる鰤を迎える「天然の生け簀」となり、この地域の特産となっている。江戸の頃より氷見で捕れた鰤は塩漬けされて険しい山道を越えて運ばれ、辿り着いた先々で「越中鰤」「飛騨鰤」などの名で売りさばかれた。
一方で、北国からもたらされた昆布がさまざまな郷土料理として根づいた富山は、今や昆布の消費量が日本一であるといわれている。さらに、北前船によってもたらされた昆布はまた、薩摩国・琉球を経て清国へと輸出され、代わりに漢方薬の原料を仕入れたことでかの有名な「越中売薬」富山の薬売りが生まれたことも興味深い。
北陸の食物語 歴史編メニュー
- 北陸の食文化を育てた「道」
- 京の都と結ばれた若狭
- 大陸文化の玄関口能登と加賀百万石の城下町金沢
- 山間部に富山湾の恵みをもたらした鰤街道
- 北前船による交流が生んだ食文化
- 歴史を振り返って