松尾芭蕉が見た鶴仙渓
元禄2年、俳聖が堪能した渓谷美
文=西島明正
写真=山上正次
西島 明正(にしじま・みょうしょう)プロフィール
1948(昭和23)年石川県山中町(現・加賀市)生まれ。京都大谷中高等学校教師、山中町教育委員会勤務を経て願誓寺住職。著書『芭蕉と山中温泉』(北国出版)『山中町史完結編』
8泊にわたり山中温泉に逗留
1689(元禄2)年、5月16日(以下新暦で記載)松尾芭蕉は弟子の曽良(そら)を伴い、江戸から奥の細道の旅に出ました。東日本大震災に遭った地域の多くは、芭蕉の旅心を満たす歴史と文学が残る歌枕の地です。この旅の紀行が、『おくのほそ道』の表題となったことからも、東北に対する深い愛着がうかがえます。
平泉(岩手県)、最上川、酒田(山形県)を経て、一路、日本海に沿って南下、金沢に着いたのは、残暑厳しい8月29日でした。
俳諧宗匠としての芭蕉の名声は、すでに加賀の俳人たちにも浸透しており、厚いもてなしを受けました。一か月にわたって加賀の道案内をした金沢の俳人北枝(ほくし)の行動は、そのことを物語っていますし、また芭蕉を山中温泉に招いたのも、いち早く金沢来訪の知らせが山中温泉の俳人自笑に届いていたからです。
金沢に9泊、小松に3泊して、9月10日の夕方、芭蕉は山中温泉に到着。湯本十二軒の一つである泉屋に宿を取りました。総湯に面する場所にあり、主人は14歳の小童久米之助です。滞在中、芭蕉は自分の俳号の「桃青」の一字を久米之助に与え、「桃妖」と名づけて、「桃の木の其葉ちらすな秋の風」の句を残しています。
翌日、朝湯につかり、旅の疲れを癒し、薬師堂(医王寺)を参詣し、町中を散策しました。おそらく轆轤(ろくろ)を挽く山中漆器の木地師の技も見物したでしょう。また、3日間にわたって黒谷橋や道明が淵(どうめいがふち)に遊び、渓谷美を堪能しました。特に、黒谷橋は奇岩層列にして、流れる碧水は淵にたまり、木漏れ日は世上の汚れを洗い、まさに勝地であると、芭蕉は手をたたいて、「行脚(あんぎゃ)の楽しみここにあり」と喜んだのです。1910(明治43)年、加賀の俳人たちは、黒谷橋の近くに芭蕉堂を建立して、芭蕉を顕彰しました。
「やまなかや菊はたをらじゆのにほひ」
この句の前書きに、次のように記してあります。「北海の磯づたひして、加州やまなかの涌湯に浴ス。里人の曰、このところは扶桑三の名湯の其一なりと。まことに浴する事しばしばなれば、皮肉うるほひ、筋骨に通りて、心神ゆるく、偏に顔色をとどむるここちす。彼桃源も舟をうしなひ、慈童(じどう)が菊の枝折もしらず」
山中の湯は、日本三名湯の名にふさわしく、皮肉を潤い、骨に染み込み、身心とも穏やかとなり、紅顔(こうがん)を保つ心地であると、浴中の気分を述べて、山中温泉が桃源郷であると記しています。
その昔、俗界を離れた中国の桃源郷では、住人たちは菊を手折って朝露を飲み、不老不死の仙人になったといいますが、山中の湯に浴せば、菊にも勝る効能があるから、手折るまでもないのです。
鶴仙渓(かくせんけい)と呼ばれる黒谷橋や道明が淵、こおろぎ橋の渓谷と名湯が、芭蕉を仙人の心境にさせたのでしょう。漢詩人としての一面がうかがえます。なお、『おくのほそ道』では「菊はたをらぬ」となっていますが、当地では「菊はたをらじ」の初案を尊重しています。
山中温泉はまた、芭蕉と曽良の別れの地でもあり、4か月に及ぶ二人旅はここで幕を閉じます。
「行き行きてたふれ伏すとも萩の原」と曽良が詠めば、芭蕉は「今日よりや書き付け消さん笠の露」と答え、「行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし」と記しました。
先に旅立つ者の悲しみ、残された者の無念さ、二羽のケリ(鳧)が一羽一羽となって、雲間に迷うようだと、別れの寂しさを語っています。
9月18日の昼頃、黒谷橋で曽良や山中の俳人たちに見送られ、芭蕉と北枝は8泊9日の逗留を終え、那谷寺、小松へと旅立って行きました。
鶴仙渓「黒谷橋」
0761-78-0330(山中温泉観光協会)
加賀ICから車約20分。