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棟方志功が見た立山連峰
昭和25年、ゴッホに憧れた画家の心を動かした山の風景

魚津港から見た毛勝山(魚津市・魚津の写真ダウンロードサイト より)

文=麻柄一志

麻柄 一志(まがら・ひとし)プロフィール

昭和30年富山市生まれ。魚津歴史民俗博物館、魚津埋没林博物館の学芸員を経て、現在は魚津市立図書館長、魚津市史編纂室長。日本旧石器学会副会長。著書に『日本海沿岸地域における旧石器時代の研究』(雄山閣)などがある。

立山への思い入れが強く、3回も登っている

 世界的な板画家・棟方志功の作品には油絵もあります。もともとゴッホを目指して絵画の道に入った志功が、もっとも描きたかったのは油絵だといわれています。魚津市内には個人蔵も含めて7点の油絵の存在が確認されています。その7点のうち4点が立山連峰を題材としたものです。さらにNHK富山放送局蔵で福光美術館に展示されている立山連峰の油絵も、魚津の海から見た景色です。計5枚の志功の「立山連峰」が存在することになります。

 魚津市内の志功の油絵は、いずれも魚津の風景や魚津の魚を描いたもので、魚津にゆかりの作品です。魚津でこれだけの作品が描かれたのは初代市長金光邦三(かねみつ くにぞう)の存在が大きいと考えられます。戦前兵庫県選出の衆議院議員だった金光はまだそれほど知られていなかった志功と懇意にしていました。1945(昭和20)年に富山県福光町へ志功が戦災を逃れて疎開してからは交流が盛んになります。金光も、戦後郷里の魚津町に戻り町長を務めていました。


棟方志功(昭和21年正月 写真提供/南砺市立福光美術館)

 1950(昭和25)年10月末に志功は魚津町を訪れ、金光邦三宅での句会に参加するなど魚津の知人達と交流を深めましたが、30日未明、漁業協同組合の島崎藤左衛門の計らいで金光らと一緒に船上で当時の魚津名物鯛網を見学しました。志功は立山には思い入れが深く、神聖な場所として崇め、三度も登っています。その立山連峰は早朝の澄み渡った空気に鮮明に輝き、志功は双眼鏡で立山の威容を脳裏に焼き付けました。海上より眺めた魚津の平野部から立山連峰の眺望を、福光に帰った志功は俳句仲間の吉田逸風の求めにより「立山と日本海と魚津川」と題し、油絵で描いています。またこの時のお礼として島崎にも海上から見た立山連峰の油絵を送っています。福光美術館に寄託されたNHK富山放送局所蔵の「立山連峰を望む海岸風景」と題した30号の油絵もこれらと似た構図をとり、一連の作品と考えられます。

改築なった魚津駅に贈られた毛勝山と立山連峰の絵

 1952(昭和27)年4月、魚津市の誕生に伴い初代市長に就任した金光は、文化財保存会の結成や文化祭を実施するなど当時としては珍しく文化事業に理解を示した政治家でした。国への陳情等の際、時折すでに疎開先福光から東京に戻っていた棟方邸を訪ねていました。金光は1954(昭和29)年に開催される富山産業大博覧会の魚津会場誘致を新生魚津市の街づくりの核と考え、博覧会会場の入口として老朽化していた国鉄魚津駅の改築を要望していました。国鉄は金光の要望どおり博覧会の開催に間に合うよう、1954(昭和29)年4月に鉄筋コンクリート造のモダンな駅舎を完成させました。金光は魚津駅の完成祝いとお礼を兼ねて駅長室に絵画を送ることを思い立ち、その制作を志功に依頼しました。

 博覧会の終了した1954(昭和29)年10月、志功が親しく接していた俳人前田普羅(ふら)の追悼会が富山市で行われるため、出席予定の志功はその前日魚津駅に降り、金光市長宅に宿泊しました。翌朝水族館(移転前)の屋上と大海寺野から毛勝山(けかちやま)を主体とする立山連峰の姿を、キャンバスに顔接するように近づけながら写しました。志功の制作に立ち会った人たちは、キャンバスに向かうと休憩無しで短時間に一気に描きあげた、と当時の思い出を語っています。魚津水族館屋上からの毛勝山は2015(平成27)年までJR魚津駅に掲げられており、大海寺野からのものは、永らく金光邦三の所有でしたが、その後いずれも魚津市に寄贈されました。現在市長公室で市を表敬訪問する国内外の賓客を志功の「毛勝山」が迎えています。

魚津市役所市長公室に展示されている棟方志功作「毛勝山」(写真提供/魚津市教育委員会)

毛勝山を描く棟方志功(写真提供/魚津市教育委員会)

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