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上杉謙信が攻めに固執した城。広大な敷地と天然の堀に守られた
増山城【富山県砺波市】

上空から見た増山城跡。広大な敷地であることが見てとれる

文と写真=野原大輔 ◎砺波市教育委員会

プロフィール

野原 大輔(のはら だいすけ)

砺波市教育委員会主任。富山県南砺市利賀村生まれ。茨城大学人文学部文化財情報学専攻卒。2001年より現職。日本考古学協会会員、富山考古学会ホームページ委員。

※本文は2011年春発行の「自然人」第28号に掲載された内容をベースに一部改訂しています。

お城ブームと増山城

「遺跡めぐり」とは遺構を訪れ、ちょっぴり感傷的な気分で歴史に思いを馳せる、というのがお約束。しかし、昨今ブームの「お城めぐり」の場合、感傷的というよりむしろ興奮しながら見て歩く人が多いです。お目当ての城を訪れるのを「登城する」「城を攻める」と表現し、少しも穏やかではありません。お城めぐりの極意は「登るときは攻め手、降りるときは守り手の気持ちで歩くこと」と、達人から伝授されました。

増山城は富山県砺波市にある典型的な「山城」です。面積は59ha、東京ドーム約13個分。非常に広大な城域をもち、魚津市の松倉城、高岡市の守山城と並び「越中三大山城」に数えられます。これは富山県内にある400以上の城の中で、ベスト3にランキングされるということです。増山城はその「三大山城」で初めて、平成21(2009)年に国の史跡に指定されました。入門者だけでなく上級者にも推奨したい、お城めぐりには最適の城です。


増山城の外観。現在は公園として整備されています

増山湖と水没した城下町

春になると満開の桜が見られます

観望の良さはまさに「選地の妙」

富山県の西部に位置する砺波平野は、家々が点在する散村(散居村)という集落景観で有名です。その平野部の東側に芹谷野(せりだんの)段丘、さらに東側に庄東(しょうとう)山地があります。増山城は庄東山地にあり、麓の芹谷野段丘が幾多の合戦の舞台となりました。増山城二ノ丸の標高は124m、城域最高所の亀山城でも133mとそれほど高くありません。しかし、以前コンピュータで解析したところ、増山城からは富山県西部がほぼ見渡せることがわかり、この観望の良さは軍事的に重要な要素なのだと気づかされました。

また、増山城付近にはかつて「三郡塚」がありました。これは砺波郡、射水郡、婦負(ねい)郡の境界にあることを意味し、有事の際、三郡へ最短距離で行けるという利点があります。増山城の立地を知れば知るほど、築城の地を決める「選地」の重要性を思い知らされるのです。

3度も攻められた増山城の歴史を紐解いてみる

増山城の歴史は複雑で、一言では語れません。

歴史に初めて登場するのは、南北朝時代。このとき、「和田城」と称していたといいます。現在も周辺には和田川や上和田という地名が残りますが、和田城の名残です。

その後、城は射水郡と婦負郡の守護代をつとめた神保氏の拠点となります。神保氏の統治時代に2度、その後1度、合計3度も上杉謙信に攻められています。生涯に70数度の戦をした謙信が、3度も攻めた城は増山城だけといいます。じつは前段があって、永正3(1506)年に芹谷の合戦がありました。これにより一向一揆を敵にまわした神保・長尾の連合軍は敗北し、越後守護代・長尾能景(よしかげ)が討ち死にを遂げているのです。この死は、一揆側と通じた神保勢が戦線を離脱したことに原因があると見なされ、以後、両家は合戦を繰り返すこととなります。能景とは、謙信の祖父にあたる人物。謙信にとって、増山城の攻略は悲願であったに違いありません。

謙信死後、破竹の勢いで北陸を進撃する織田の軍勢に城は落とされます。織田の部将、佐々成政は越中を平定し、増山城はその配下となります。しかし、本能寺の変後、豊臣秀吉と敵対した成政は前田利家と加越の国境付近で交戦。その際、成政は利家や秀吉の来襲に備えて、増山城に普請(土木工事)を行ったとされます。やがて成政は秀吉に討伐され、砺波郡は利家の領有となりました。増山城の城代には、重臣である中川光重(巨海斎宗半(きょかいさいそうはん))が任じられました。光重とは、利家の次女蕭(しょう)の娘婿です。蕭は留守がちな夫を助けて城を切り盛りし、「ますやま殿」と呼ばれました。蕭が没した慶長8(1603)年ごろ廃城になったと考えられています。

縄張の巧妙さが際立つ、天然の堀に守られた貴重な城跡

「城」という字は「土」に「成る」と書き、「土でできた構築物」と訳すことができます。増山城は山城なので、もちろん天守閣はありませんが、石垣もほとんどありません。まさに「土づくりの城」と言っていいでしょう。石垣が普及するのは、織豊期(安土桃山時代)以降のこと。増山城はそれ以前の姿を留めるレアケースなのです。

城の概要をみていきましょう。縄張は、山塊の起伏を巧みに利用しています。増山城本体のほか、北側に亀山城と孫次山(まごじやま)砦があります。それらは天然の水堀である和田川によって守られています。城の中心部に近付くと、長大な堀切が行く手を阻みます。北と南にそれぞれ約300mも直線的に続く堀切はいくつもの尾根を断ち切り、壮観です。城の中心は二ノ丸で、ここは隅櫓(すみやぐら)を2基備えます。この二ノ丸を守るようにして一ノ丸、安室(あぢち)屋敷、三ノ丸、K郭(仮の名称)といった曲輪群が配置され、全方位からの攻撃を防ぎます。

パンフレット片手に遊歩道を進むと、縄張の巧妙さが手に取るようにわかり、飽きさせません。スタスタと進むのもいいですが、攻撃と防御、両方の視点でじっくりと観察しながら歩くと面白さ倍増です。

豊かな自然環境を活用してこそ史跡は活きる

増山城の登山口は春になると桜が満開となります。ここは隠れたお花見スポットなのです。この城にはマスヤマスギや広葉樹が茂り、森林浴に訪れる人も多いです。

先日(2011年現在)、解説ボランティア「曲輪の会」が結成され、予約すればいつでも案内してくれます。また、平成21(2009)年からは地元住民らが参加して「増山城戦国祭り」を開催し、今までにない賑わいをみせています。平成22(2010)年には新名所の「冠木(かぶき)門」も登場しました。

登山口にはパンフレットを入れたポストと杖を用意しているのでぜひ利用ください。森林や遊歩道の整備も進み、歩きやすくなっているので、この機会にぜひ戦国の鼓動を感じてほしいと願っています。

山菜シーズンは自然の恵みの宝庫です

年に2、3回行われるウォークラリーは、毎回多くの人で賑わいます

秋に開催される増山城戦国祭り

解説ボランティア養成講座の様子

増山城に誕生した冠木門

アプローチ

北陸自動車道砺波ICから車で15分。

お問い合わせ

解説ボランティア「曲輪の会」事務局
TEL:0763-32-6815(砺波市埋蔵文化財センター)

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